「忘れかけてたジュニアー時代」の心 その6

あんなに、楽しくサッカーをやってた

ジュニアー時代 そして中学サッカー

それが、その時の息子には、見る影もなかった。

しかし、ライバルであるチームメイトの存在は

何よりも、かけがえのない物だった

「早く、元気になって、サッカーを楽しもう」

その言葉が、再びサッカーの本質を目覚めさせた

忘れかけた、あの時代の気持ちは

その時の彼には、大きな財産だったのだろう

彼のサッカーノートをこっそり見ました

監督の返事が

「ウッチー、お前は今まで多くの人に支えられ

ここまでサッカーをやってきたはずだ、

その感謝の恩返しは、何も恐れず

自分らしいプレーを思い出す事だ

俺は待っているぞ お前のタフさと、あの左足は

非凡なものだ。」

ありがたい言葉でした。

そしてBチーム陥落から4ヶ月して再びトップチームに

上がりました。 そこには、あの気の弱さは影を潜め

一回り大きくなりました。

チームメイト、監督に感謝です

サッカーを通じて、成長する事は

一つの手段である事を確信できるものでした。

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怒 「出直して来い」の心 その6

高校に1年から、トレセン招集され(県トレ選考会)

少し天狗になる息子達、しかし、そこには

ハイレベルの選手達ばかり

井の中の蛙に気づいて行く二人 しかし

高校2年になると、早くもスタメンのベンチ入り

その時の3年生は、選手権も夢ではないメンバー

双子の弟はセンターバックの控え

そして長男は、左のMFとしてベンチ入り

監督はレフティーの長男を、途中から度々使う。

監督のゲキは長男に集中

ある、招待試合で先発起用された時

息子は、完全にビビっていた

ミスの連発、自分を見失い とうとう監督の怒り爆発

ハーフタイムの時

監督 「お前はBチームでやってる時のように、のびのび

サッカーを出来てない、何やってるんだ

このまま荷物をまとめて、Bチームの会場まで行け~」

サッカーで怒られた事のない息子は

完全に傷心の状態 そして監督はトドメに

「出直して来い

ベンチはおろか、やっと掴みかけたレギュラーの夢は

Bチーム陥落となってくのでした。

メンタルの弱さが、長男の大きな問題である事は

私は、当然気づいていました。

Bチームで再起を目指すが、オーバーワークで

肉離れのけが、これが治ったかと思ったら

低血糖でグランドに倒れ救急車(これにはビビリました)

入院一週間でした。(院長はサッカーをやめなさい)

完全に谷底に転がり落ちる息子、

しかし、病院にはチームメイトみんなが来てくれ

病室は大賑わいでした。

果たして、息子は出直してこれるのだろうか?

それとも、これで終わるのか・・・続く

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「覚醒」の心だ その5

要するに、勉強にやる気がない子に

塾にやっても身につかない

サッカーも上を目指す気持ちがない者に

上達はない。という結論です

息子達も中学サッカーは終わり

福岡県中体連 3位

さ~これからどうする

私立の特待を断り

公立のサッカー部に入る

ここの監督は、全国大会の出場経験の監督

今までの仲良しサッカーでは、

必ず、落ちこぼれ部員になる

そして、部活を辞める可能性 大

私は、彼らに何も言わない

自分で考え、そして道を開く

中学校の推薦入学でした(サッカーで)

簡単には部活は辞められない

しかし、この監督は、いくらサッカーが上手くても

素行の悪さや、部を乱す者は、即刻退部

練習量は半端ではありません。

毎日、書かされるサッカーノート

70名近くの部員のサッカーノートに

毎日、返事を書く、熱すぎる監督

しかし、この監督に息子二人は完全に

サッカーに覚醒していきました。

「ここまで、厳しいとは思わなかった、

しかし、サッカーが益々面白くなった

絶対、レギュラーを勝ち取る

そして、選手権に出る」

彼らは覚醒した。

しかし、私のモデルチェンジした考え方は

決してブレない。

レギュラー争いや 掲げた目標の中で

人として成長してもらえば、それで良し

だから、ベンチでも 応援組でも

最後まで諦めずやれれば100点

そう考えて、サッカーの事は何も話さなくなった

ただ、練習や試合の応援は息子は出なくとも

ひたすら通いました。

そして、これから始まる 予期せぬな事態を

迎える事になるわけです。

まだまだ続く 試練の道。

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「トレセン招集ナシ」 その4

皆さん、沢山拝読されて、ありがとうございます。

そして、ランキングクリックも、ありがとうございます。

やる気マンマンで書きますよ(不純なウッチーパパ)

続編です

只々、ショックの私は監督に聞きました。

監督 「そうですね、本人にはなるべく参加するように説得しました、

    次回の招集はないかもしれないよ」

息子 「はい、いいです」 と言うことだったらしい

まだ、間に合うと思い、再度、息子を説得したが

息子達からは 「今は、小学生時代からの仲間と少しでも沢山サッカーをしたいだけ

中学時代もそんなに長くないので、そっちの方が俺達は大事で、本当に力があれば、高校でも当然招集されるし、ダメなら実力がないだけで、高校でもしトレセンに招集されれば、もちろん喜んで参加する 中学までのトレセンはそんなに気にする事はないと思う。」

そんなもんですかね~

もう、諦めました。

しかし、これが正しいとは、決して思いません

あくまでも、我が息子の考えで、

本当に、プロを目指すなら、やはりそんな考えでは

到底ムリかもしれない

その日から、私は息子達に大きな勘違いを起こしている事に気づきました。

そうか 俺は子供の気持ちを全く無視

彼らが今、欲しいものは

純粋に仲間とサッカーを楽しむ時間

そういえば、サッカーを初めて

親に対して、感謝の心も芽生えている

友達と絆も生まれている。

リズムある生活も身に付いている

担任の先生も「二人共正義感が強いですよ~

いじめられていた子供も二人がいるから

今は元気に学校に通学してます」

私の子供の場合は 親が求めるものは

サッカーと言うスポーツで

子供がどこまで、人間として成長できるのか

それこそが、我が息子達の場合大事な事

私は、その日から完全に決心しました。

そして、我が家のサッカーはモデルチェンジ

そこから、不思議と気持ちも楽になり

また息子達はサッカーも大きく成長していきました。

まだまだ続く・・・・(続編も頑張って書きます)

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「トレセンには行かない」の心 その3

ジュニアー時代から 双子の息子はトレセンに行ってました。

そして、中学になると、ジュニアー時代の流れで、トレセンに招集されていました。

私は、息子がトレセンに行くのが普通に考えていましたし、出来れば九州トレセンまで

行ってくれれば、なんて思っていたのが正直な気持ちでした。

双子はレフティーでもあるし、これからトレセンでも沢山経験を積んで欲しいと感じてました

しかし、中2の時に監督に二人揃って、トレセンを辞退願いをしました。

なんで~( ゚д゚)ポカーン  そんなアホな・・

息子二人に、その事を問い詰めました・・・・・・・・

返ってきた返事は「トレセンは自由参加だから」 この一言だけでした。

どうしても納得出来ない私は日を改めて、もう一度聞きました

そしたら

「なんでお父さんは、そんなにトレセンにこだわるの、僕たちは、トレセンに行くのが嫌じゃないけど、その日は練習試合があるから・・・・・・」

私は

「トレセンより 練習試合の方が大切なのか」

息子

「そうだよ」

私は・・・・・・      呆れ  

こんな言葉が頭の中を駆け巡りました。

彼らにとってサッカーは何なのか

私にとって息子たちのサッカーは?

大きくかけ離れた、息子達と私の思いに、私はかなり落ち込みました。

続編は次回に書きます。

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「涙のゴールの心だ」 その2

前回の続編です

双子の息子達もいよいよ、中学になる前の、ジュニアー時代の最後の招待試合で

私の心に、少し変化が生まれる出来事がありました。

6年生だけで24名いたチームでした。その中のK君は1年生からチームに入っていたが

6年生までの公式戦は一度も、出番がありませんでした。

その子の、お父さんは若くして亡くなられ、

お母さん一人で二人の子供を育てられていました

6年生の長男K君は、とても明るく、チームメイトからも好かれていました。

お母さんは、仕事の合間を縫ってでも、公式戦 練習試合 地域の大会も

応援に来られていました。練習試合や地域の大会には 時々途中からFWとして

出番が回って、お母さんは両手を握り締めながら、息子のプレーだけを

追い続けられていました。 とても優しいお母さんでした。

しかし6年間で一度もゴールはありませんでした。

ジュニアー時代でサッカーを辞める事も、本人は決めていたそうです

そして、最後の招待試合で、監督がK君を先発FWとして起用しました。

完全なワントップ状態のシステムだった事をよく覚えています。

試合では、何度も決定的な場面を外し0-0のまま後半残り5分の時でした

相手キーパーがゴールキックをミスして、FWのK君の足元にボールが・・・

彼はドリブルもせず、思いきって振り抜いた右足のボールは

キーパーの頭をフワリと越して、ジュニアー時代の最初で最後のゴールとなりました

チームメイトはみんな駆け寄り、手荒い祝福をしてくれました。

そして彼が、お母さんの方を見て両手を上げて喜んでる姿を、よく覚えています。

私は、近くにいたお母さんの方を見たら、・・・・・・・・・

両手を顔に当てて、ボロボロ涙を流されて 傍にいた他のお母さんたちが

「やったね すごかったね」と、もらい泣きしていた光景を忘れる事は出来ません。

私は、自分の子供が今までにゴールしてきた喜びと

K君のゴールは親として全く違うものでした

私は、その時、親の思いと子供の思いは違うのではないか?

K君がゴールした時、お母さんの姿を探す姿を見て

そんな事を感じた瞬間でもありました。

そして中学サッカーになって、自分の考え方が一変する事が起きました。

続編は次回になります。 「アホな自分に目覚めます」

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「息子達のサッカーが終わった」の心 その1

久々の更新です

とうとう末っ子の高3の息子も選手権県大会、敗戦で私の家族のサッカーは幕を閉じました。

いや~長いサッカーとの関わりに、振り返れば双子の長男、次男 そして6歳離れた

3男、全部合わせると、延べで32年間応援してきました。

特に熱かったのは、ジュニアー時代で、頭の中はサッカーだらけ、

あの頃は、何故私はあんなにサッカーに夢中だったんだろう。

そこには、初めての子供のスポーツクラブで、勿論サッカーには全く知識が乏しく

ルールさえ判らなかった私でしたが、息子が得点すると

それは それは嬉しくて、いろんな大会で試合を観て、少しずつ、

サッカーのルールや サッカーの組織図も理解してきました。

Jリーグも人気が出てきて、バカ親の私は「息子がプロになれば」なんて

そんな想いで、息子を応援してきました。

トレセンの時などは夜も眠れなく、また夜も空けない位から目が覚め

朝からソワソワの時代を思い出します。

やはり そこには子供から夢や期待や希望というものを、私は貰っていました

ある意味、有難いと感じてきました。

双子の息子達が中学になる時に末っ子は小1で、早速サッカークラブに入部、

いよいよ家の中はサッカー中心に回っていく事になるわけです。

玄関はスパイク ボールだらけの状態で、夜の食事の時は

サッカー以外の話はなかった位、家族はサッカーで繋がっていた

そんな感じでした。 私はその頃までは、とにかくこの子達がサッカーが

人より上手く、活躍して多くの人に認めてもらい

ユースや強豪高校からスカウトされればいい、そんな事ばかり考えていました。

それこそが、子供の夢であり、私の夢だと思い続けていた時代でした。

続編は次回に書きます。アホな自分に少しずつ気が付き始めます。

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イジメ 其の3

この内容も書いてるだけで かなり憂鬱になります。

其の2の続編ですが グループNO2の人は私を弟のように

可愛がってくれた人です しかし その人にも真実はいえませんでした

しかし、ある日 私が強要された万引きを彼が発見する事になり

私は その人から リーダーの家に連れて行かれ

そこで リーダーと彼が私に「誰から頼まれた」と言われ

私は泣きだしてしまい NO2の優しい彼は

「俺たちが付いているから心配するな 以前の怪我の事も

そして今までにあった事を話せ」

私は嗚咽しながら 張本人の名前を出しました

リーダーはすぐに その本人を家に呼んできました

その僅かな時間が私にとっては 恐怖の一言でした

そして 彼が家に来るなり リーダーのとった行動は

何も言わず 彼に往復ビンタ そして柔道をしていたリーダーは

何度も 背負い投げを・・・・・・私の恐怖は更にヒートアップして

大声で泣き出してしまいました

NO2の彼は私の手をずっと握ってくれていました

すべてを察したのか イジメの張本人は「すみません」と何度も繰り返すが

リーダーのいつも優しい姿からは想像も出来ないくらい

怖い姿を目の当たりにしました。

「一番小さい子を いじめるのは 弱い者イジメじゃないか

オレはそげんか奴が 一番好かん」

大声で怒鳴り続けました。

もう すべてが終わったと思いました

そして リーダー とNO2は私を連れて 私の家に行き

すべての事を 私の親に話しました

正義感の強いリーダーとNO2は私の親に謝りましたが

私は何故?という感じでした

それから 親父は私を連れて イジメの張本人の家に行くことになるが

それが また辛くて 泣き虫だった私は泣きながら

次に起こる恐怖の場面を 子供ながらに想像してました

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いじめ 其の2

何故 自分がその人にイジメを受けているのか

幼い私は理解できませんでした。

また イジメから逃れる手段も方法も考えられず

誰かに相談する 勇気も持ち合わせもありませんでした。

大怪我をした後は 暫らくその子からのイジメは止まったが

再び また同じような事が繰り返される日々が続きました

内容は凄く なまなましいので控えさせてもらいます

その頃の私の家は 商売をしていて 親は朝早くから

夜も遅くまで働いて とても子供にかまっている時間もありませんでした

勿論 昭和30年代後半の頃ですので

何処の家庭もそうでした

何故 どうして そして いつまで・・・。

彼らさえいなければ・・・ 誰か気付いて・・・

いつも同じ小屋でやられていた私は その小屋さえなければ

なんて考えたりしてました。

小学3年生の私にとっては イジメの相手の小学6年は

それは 凄く大人に見えていました

そのグループのNO2(小学6年)の存在が私のイジメから

開放される人となっていくのでした。

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イジメ その一

今 大きな問題として 「いじめ」という事が

またしても テレビニュースで流れています

私も 少年の頃は、ひどいイジメにあってました。

私達の幼い頃は、同学年というより 同じ部落の子供達

下は小学低学年から上は中学生という感じで

集団で遊んでいました。

私の場合は 私が一番下で 上は中学2年生ぐらいだったかな

10名ほどの集団で一番上がすべての遊びを統括して

後の者は それに従ってました

ボスは硬派で面倒見がよく 一番下の私を可愛がってくれてました

しかし、それが気に食わないのか 中堅の位置に属する者二人が

暴力を人のいない小屋で そして万引きを強要したり

それを拒否すると またしても 殴るける

そして 鼻血を出したり 足にアザが出来たり

「親に言ったら これでは済まさんぞ」なんて脅迫されたり

そんな 少年時代が2 3年続きました

私は 親にも言えず 母親に「この家を引っ越したい」と言ったことを

今でも覚えています。

そして イジメがエスカレートして大怪我を負い 死と直面しました

それでも この事実を言ったら 更にひどいめに遭うと思い

親父が「誰がやったんだ~」と私に問いただすが

私は恐怖のあまり 「自分で怪我をした」と震えていた事を忘れません

次回は その2を書き込みます。

サッカーの話しじゃありませんが 必ず読んでください

 

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